走らないという選択。無理をすることが正しいと思っていた。
昨日は青梅マラソン当日!
しっかりと準備してきたが、金曜日に履きなれない靴で走り、かかとに水ぶくれを作ってしまった。
これが致命傷で、歩くことすらままならない。
無理して走ることもできるが、水ぶくれをかばい、他の場所も痛くなる。
『やめる』という選択肢に、とても罪悪感を感じてしまう。
好きでやっていることなので、自分で判断するのは当たり前。
痛みを耐えること、嫌いだけどやることを今までやりすぎてきたことで、自分の中でそれが正義になってしまっている。
正常な判断ができない。
走るのをやめたことで、別に誰も被害を受けるわけではないが、自分が許せない。
これは『ちょっと頑張りすぎじゃない、ここらで一休みしましょう』というお告げなのかもしれない。今回はこう思うことにした。
走ることがなくてはならないものになっている。
何かにとりつかれたように、ひとつのものにこだわりだすと周りが見えなくなる。
客観的な判断ができなくなる。
同じ失敗を繰り返さないように気をつけよう。
趣味に没頭することも良いことだけど、もっと他にやることがあるのではないか?と思いはじめた。
今まで調子良く進んできたこが、ケガをすることで、新たな発想が生まれる。
これは家庭や仕事場でも同じようなことが起こる。
何かが起きた後に気づくということは多々ある。
同じことの繰り返される毎日に、異変が生じることで、日々の生活に疑問を感じる。
この疑問に敏感に反応し、考えを深めていくことで、楽しくなってくる。
今回はこんなことがでてきた。
ロードでスピードを高めていくのも良い。それはトレランで表彰されたいから。
しかし、そのお陰で日常が苦しくなるのなら、楽しめることに切り替えた方が良いのでは?!
山をゆっくり長い距離走るとか。テニスとか。
数字ばかり追いかけていると、疲弊してしまい、生活に潜んでいる大切なことを逃してしまう気がする。
ゆっくりいこう。